どうぞ、児童相談所にいらしてくださいね!
何も教えてもらってないのに、子どもを育てるという大変なことを引き受けている、すべての親に配慮と敬意を。
児童相談所では、虐待案件の対応をします。
虐待というのは、柔らかく言うと、「不適切な養育」ということです。
でも、子育ての仕方が不適切だからと言ってすぐ責めるのは、酷なことですよね。ホントに。
だって、子どもの育て方なんて、親からも学校でも習わないじゃないですか。
近隣で、手取り足取り教えてくれるわけじゃないじゃないですか。
今困っているのに、今助けてもらえるわけじゃないじゃないですか。
なのに、子どもを産んだだけで、いきなり親として、完成度の高い子育てを求められるんです。
「子どもを育てるのって、大変ですよね。うまくいかなくて、当然ですよね。」
児童相談所としては、常にそういう姿勢で、親に敬意をもって、接してもらいたいです。
児童相談所は、ペナルティを受けに行く機関ではない
最近、
「そういうことしてると、児相に連れてくよ!」
という言葉が、脅し文句として使われている場面に出会います。
悲しいことですね。
児童相談所は、子どもに関するあらゆる相談を受けてきました。
頼れる機関として、児相はありたいのです。
子どもにとっても、大人にとっても。
それが、なぜ脅し文句になってしまうのでしょうか。
児相に行くことが脅しになる背景としては、平成16年の児童福祉法改正が影響しています。
児童相談所は県の機関なのですが、H16年改正では、市町村も児童家庭相談に応じることを明確化しました。
そこで発生した役割分担が、
- 在宅で、訪問などの支援でも大丈夫なご家庭については、市町村が主体となって関わります。
- 在宅生活がかなり厳しく、一時保護や施設入所までも必要になってくるご家庭については、児童相談所が主体となって関わります。
というものです。
在宅生活がかなり厳しいということは、虐待や非行の問題が深く絡んでいることが多いです。
そのような状況では、親子関係がかなり不調で、苦しい状況です。
親などの養護者が、どうにも困って、「言うことを聞かないと、家にいさせないぞ」という言葉を、子どもにかけることがあります。
家にいさせないということは、児相が一時保護や施設入所の措置を取るということです。
地域に馴染み、学校もあり、友達もいる子どもにとっては、その地域から離れてしまうということは、大ダメージですよね。
言うことを聞かないと、家にいさせない。
そういうしつけが、「児相に連れてくぞ!」という脅し文句につながるのですね。
これは、家庭だけでなく、場合によっては施設でもたまに聞いたりします。
でも、児相は、「悪いことをしたり、親(職員)の言うことを聞かなかったら、ペナルティを受けに行く場所」ではないのです。
一緒に悩みや喜びを分かち合い、頼られ、ともに歩んでいく機関なのです。
虐待だと指摘されることは、必死な自分の努力を否定されること
明らかに虐待である行為を、虐待であると指摘しても、なかなか認めない親もいます。
一般的には、「ここまでしといて、ひどい親だ」と見なされるでしょう。
しかし、僕が接している中では、親御さんがどこか怯えている。どこか戸惑っている。どこか悲しみを抱いている。
そのように感じもするのです。
おそらく以下のような心境をお持ちなのではないでしょうか。
「必死に努力している自分の子育てが否定される。」
「さらなる努力を要求される。」
「ペナルティが課せられる。」
「本当は、助けてほしい。」
一般市民の方が、虐待する親のことを、非難の目で見てしまうのは仕方のないことだと思います。
しかし、児相のワーカーは、当然そこでとどまってはなりません。
虐待をしてしまう親の背景にあるものは何か。
そこにアプローチしなければ、真に「虐待対応の仕事」とは言えないのです。
親御さんは、困っているのです。
児相で働くと、友達が減る
以前は別の部署で働いていた後輩が、児相に来てからは残業時間がものすごいことになってます。
かつては、よく職場の人と花火大会とかバーベキュ大会とかに行っていたらしいですが、今となっては声もかからなくなってしまったそうです。
いつも行けないから。
「児相で働くと、友達が減る」
そういう環境では、まずいですよね。
児相でも、長く勤めている人は、貴重な人材です。
長く勤めてもいいなと思える人を、少しでも増やしたいです。
傷つけられようが何されようが、見てくれる人はその人だけだから
どうして、傷付けられるとわかってて、その人に寄っていくのだろう。
体も心も傷付き、親や先生とはケンカになり、児相からは注意され、施設には戻れなくなり、それでもどうしてその人に寄っていくのだろう。
不思議に思うことがあります。
ただそれは、
「傷つけられようが、何されようが、いつも関わってくれる人はその人だけだから・・・」
そういう切実な、人間として根源的なものを、満たしてくれる人がその人なんです。
支援者としては、それに対して、悔しく思わなければなりません。